Teacup.ブログで15年間ほどブログを書いていたが、去年の8月をもって運営サービス自体が終了を迎えていたらしく、めでたくすべてのデータが消失することと相成った。
…と書くと、いかにも零細ソシャゲのような突然のサ終であったかのように聞こえるであろう。実際はTeacup.さん(社名を指したつもりであるが合ってるかはわからない)はちゃんとしているので「近々サ終するから他のサービスへの移行よろぴく」メールを全ユーザーに向けて数回に渡ってお知らせしており、私が移行作業を面倒くさがっている間に順当にラグナロクが来ただけのことである。
記憶が確かであれば、旧ブログの最後の記事は『シン・エヴァ』の感想的なアレだったはずである。つまりこのまま新たなブログを立ち上げなければ、「『シン・エヴァ』を観て満足し光の粒子になってネット上から消えた人」という風になって面白いかもな~~~~などと他人事のように思っていた。
しかし、シンジ君に差し伸べられたマリの手のひらが持つ意味を考えないわけにはいかない。
『シン・エヴァ』のラストシーン、駅のホームのベンチにボケっと座っているシンジ君の後ろからマリが目を隠しながら「だ~れだ?」からの仲睦まじいなんやかんやがあってマリはシンジ君に手のひらを差し出す。シンジ君はその手をとりながら立ち上がり、2人そろってホームの階段を登ってゆく。カメラはズームアウトしていき、宇部の街並み(突然の実写)を数秒映し出した後に終幕。
よほどの逆張りクソ野郎でなければ、この一連のシーンからは「『エヴァンゲリオン』が終わった後も人生は続いていく」というメッセージを受け取るであろう。
不格好すぎる途中経過まで含めてすべてが開示される(受動態で書くのもおかしいけどね)世の中で、「続けることに意味がある」と100%の確信で断言することは割と難しくなってしまったが、少なくともマリの手のひらの差し出し方に躊躇はなかった。指針として今はそれで十分すぎるくらいだと私は判断している。
成り行き上、移行ではなく新設という形になってしまったとはいえ、そういうことであるから新ブログの名前(冷静に考えると何と呼ぶのが正しいのだろう、表題?)を考えないといけない。2秒考えてASIAN KUNG-FU GENERATIONが近年発表した”You To You”という曲の歌詞の一節を拝借した。
小刻みにギョっとするワードが入ることに定評のある後藤正文’s歌詞の中での比較で言うと、一見「ありきたり」寄りのセンテンスに思えるがなぜ引っかかるのだろう?という疑問の答えは割とすぐに辿り着く。
月並みな表現であれば“ここじゃない何処か 僕じゃない誰か”になっているであろうところ、“そこ”“君”という二人称になっている。
私は楽器が弾けない故に全くもって想像の域を出ないが、あえて一人称でない歌詞を書いてそれを歌うというのは色々な苦難があると思う。ギターを掻き鳴らしながら歌うという行為の身体性=主観性に真っ向から逆らう試みであるからだ。
とはいえこういった「主観性からの脱却」なるものがアジカン史においてこの曲で初めて導入されたアプローチかというとそうではなく、「普遍的(⇔主観的)な音楽」というのは彼らが初期からずっと目指してきたゴールだというのを思い起こすと、荷物が丁度いいところに収まった感覚を覚える。
とはいえ三人称=完全な客観になっていないところから推察するに、主観と客観のどちらを取るべきかという命題に対しては未だ悩んでいる最中なのであろう。この曲を口ずさむときに否応なく襲い掛かってくる祝福感に包まれつつ、私もたまにはそういうことを悩んでみようと思うのであった。
巻末Q&Aコーナー
Q.当ブログの今後の展望あるいは予定は?
A.そんなものはない。インプット量が著しく落ちているため。最近カーステレオでしか音楽を聞かない生活を送っていた中、ふとしたきっかけからイヤホンで聴いた曲の「「「すべて」」」が聴こえることに感動したため、しばらくは今年の曲を聴き漁って追いつくつもりではいる。見とけよ……